“徐福東渡のなぞ”私考

村岡 央麻
「吉野ヶ里」創刊号 寄稿

始皇帝は何を求めて、徐福を東海に派遣したのか -1-


 司馬遷の史記には、始皇帝が「不老不死の仙薬」を求めさせるため、徐福を東海に派遣したことが数か所に記されています。

 『数年の歳月をかけ、何回かの試みの末、ついに始皇帝37年(紀元前210年)徐福は童男童女三千人と五穀の種子、百工を携え、「不老不死の仙薬」を求めるため蓬莱の国を目指して東の海に出港した。しかし、徐福は平原広沢を得て王となり帰国しなかった。』というのがその粗筋です。

 『史記』秦(しん)始皇帝(しこうてい)本紀(ほんぎ)二八年、秦(しん)始皇帝(しこうてい)本紀(ほんぎ)三七年、『史記』淮南衡山列伝(わいなんこうざんれつでん)、『史記』封禅書(ほうぜんしょ)、『漢書』伍被伝(ごひでん)、『元和郡県図志』唐・李吉甫、『太平環宇記』宋・等に記載があります。

 始皇帝は中国全土を統一し全ての願いを成し遂げたが、究極の欲は死から逃れることと、不老不死の仙薬を求め徐福を派遣したのだろう。しかし徐福は帰らなかった。暴虐の限りを尽くした(焚書坑儒。対立者の粛正など)始皇帝の性格を考えると失敗した時の恐怖で初めから帰国する事は考えていなかったのではないか。又は集団亡命を計ったのではないか。などと、その事件を推測し、私の知る限りの研究者の間では、徐福は始皇帝をだまし、膨大な国費を使って集団亡命を計り、まんまと成功した男、始皇帝は徐福にだまされた男という評価が大方のものでした。前置きが長くなりました。さて私の全く違う見方を申し上げてみたいと思います。

 数年前(注:2001年記)、福岡市立美術館で秦始皇帝展を見た時、漠然と考えていたことが、ひょっとしたらと思うようになったのです。