吉野ヶ里遺跡が全国に報道されたのは、ちょうど10年前である。「弥生時代の『クニ』というセンセーショナルな見出しが踊った1989年(平成元年)2月23日の朝日新聞一面トップを忘れることはできない。これは考古学史上、異例といえるほど学者や専門家の注目を引き、かつ全国の古代史アマチュアファンを巻き込んだ吉野ヶ里フィーバーの始まりであった。全国から日に日に数を増す見学者、わき起こる保存の世論、当時の知事の英断などの幸運が重なり、現在、国・県営歴史公園として整備されたのは喜ばしい限りである。この後、青森県の三内丸山や鹿児島の上野原遺跡などが発掘されて古代の歴史を見直す考古学ブームを引き起こしたのも、吉野ヶ里の発見と保存が契機であったとも言える。
この吉野ヶ里報道のきっかけが徐福にあったのをご存知の方は、少ないのではないだろうか。1989年4月、佐賀市政100周年の記念行事の一環として徐福のシンポジウムが予定された。これを企画して、東奔西走したのは当時STSサガテレビの副社長 内藤大典氏であった。
その頃、伝説が残る佐賀でも、まして県外では、徐福と言ってもほとんどの人は疑うばかりで、実存の人物と信用する人はなく、先生方にお願いしても、学者は出土したもので考察するが、伝説にはかかわらない、とおしゃって腰が重いのを説き伏せて、やっと日本でその道での第一人者の方々に、この佐賀に来ていただくことになった。梅原猛国際文化センター顧問、樋口隆康京大名誉教授、金関恕天理大教授(当時)、福永光司元東大教授、茂在寅男東京商船大学名誉教授(海洋考古学)、その他内外の研究者、関係者10数人だった。
その年の2月11,12日の連休にホテルで資料作成をしておられた樋口、金関両先生を遺跡の記録保存もほぼ終わり、工業団地として、ブルドーザーが入るばかりになっている吉野ヶ里に案内したのが内藤さんらであった。吉野ヶ里にたった先生方は興奮された。その興奮のままに、その夜、ホテルからあと数日しかないから、すぐに佐賀に見に来なさいと、あちこちに電話をかけられた。このことをやっと明かされたのは、二、三年前であった。奈良国立文化財研究所の佐原真氏は朝日の記者をつれてきたが、そのスクープ記事によって、その後の佐賀県に大変迷惑をかけたという思いが強かったのであろう。私はこの三人に確認しながら、心からお礼を言ったことである。またこのことを樋口先生は昨年の秋、日本経済新聞の「私の履歴書」に書かれて、やっと公表する気になられたのかと嬉しく思った。
吉野ヶ里が考古学的に初めて報告されたのは昭和九年、神埼高等女学校の七田忠志先生が学会誌に発表した「注目すべき遺跡」で、発掘調査を依頼し続けられた。しかし、戦前、戦中、戦後と、そのまま放置され、昭和二八年の大水害でたくさんの甕棺から人骨が表出、七田先生は急いで九大の解剖の金関丈夫教授に連絡。金関教授は人骨が従来の日本人より身長が高いなどと分析し「渡来系弥生人説」として有名になった。この方は前述の金関教授の父である。因縁を感ぜずにはおれない。
佐賀には徐福伝説が濃厚に残る。上陸は諸富の浮盃とされ、源蔵屋敷跡も特定され、金立には徐福を祭る神社もある。太良、富士、山内町、武雄市などにもあり、徐福研究会員としては、シュリーマンがトロイ伝説を信じたように徐福伝説を信じたい。
中国ではほとんどの人々が実在の人物と信じ、史記に記された東方の蓬莱とは日本であると思っているし、徐福の故郷といわれている江蘇省の連雲港には子孫までおられる。連雲港あたりが有明の海に似ていることは驚くばかりである。
「平原広沢を得て王となりて帰らず」と史記に記載される徐福の平原広沢は、肥沃な佐賀平野と思えてしかたない。徐福の渡来により農業、漁業、青銅、鉄、ガラスなどの技術、医学、薬学がもたらされ、吉野ケ里遺跡も開けたであろうと想像するだけで楽しい。
二千二百年前の事であるが、時あたかも縄文から弥生へと変わる頃である。佐賀から弥生時代は開けていったのではないかと考えたくなる。 中国の江南の人骨と吉野ヶ里の人骨とが非常に似ているという解剖学的発見も胸躍らされる。将来、学問的にDNA分析が成されると、なお、興味ある発見も期待されよう。
吉野ヶ里から発見された絹は、京都工芸繊維大学名誉教授の布目順郎氏の鑑定によると前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていたので、それが最初に国外に出たことを確認できたのが日本で、しかも北部九州であるとおっしゃっている。 さらに吉野ヶ里から出土した人骨が江南の人骨に似ているということから、佐賀の徐福伝説をどのように考えるべきだろうか。貝紫や茜で染められた薄絹をまとっていた、佐賀平野の弥生人は、徐福の子孫で、われわれ佐賀人はその血を多少なりとも受けているのか、と考えると血が騒ぐではないか。
ここに思い浮かぶのが佐賀出身の明治の碩学、久米邦武東大教授である。日本民族は江南からの渡来もあるとの説を発表し、それが吉野ヶ里の研究によって証明されつつあるとも言えよう。
イネや麦が実る田んぼの向こうに背振の山々が連なり、吉野ヶ里の美しい丘陵が広がって、ここに日本の弥生の原点がある。
朝日新聞寄稿 (1999年2月23日)